1946~1956年。
私は昭和21年2月16日板取村の生まれです。終戦の半年後で日本が大きく変化したと思いますが、記憶に
無いので解りません。私が大人になってから、大正4年生れの母親に体験談を聞こうとしたら、「オレは戦争行っと
らんから知らん。」って、「でも田舎では、男の人が居なくて苦労した。」って。参考にしています。
一番古い記憶は2歳だと思います。背中に負われて肩越しに葬式の様子を見ました。写真で見ると気骨のありそ
うな明治の女性です。次に思い出すのは4~6才の頃、道路は未だ凸凹の泥道で、荷車に砂利を載せて穴ぼこ
を埋める、道直しと言う職業があり、梅吉さんがやっていました。幼な友達のさとると自分が荷車を押して、2キロ
離れた隣部落まで行き、古い屋敷でご飯を頂きました。箱の大事そうなお膳でした。帰りは子供だからと言って、
大人の人に送ってもらった記憶です。美味しいご飯でした。さとるの家は江戸時代からの庄屋で、代々清左ェ門と
言って、その時は喜市と言うお爺さんがいて、自分とさとるは大きな声で怒られてばかりいました。見晴らしが良いか
ら屋根に、どぶ板をはがして中を覗く、蔵の中を探検する、屋敷が大きいから奥の間は真っ暗、押入れから持ち出
した真剣の刃の光は印象的でした。蔵の中の梅干を出して葉っぱに包み吸いました。その時、みのすけをからかい
に行きました。彼は腕が曲がったまま伸びません。足はビッコで左右に揺れながらしか歩けません。寝ている所は何
処かわからない、カヤ作りの小屋のうわさでした。肘に弁当箱乗せて食べている所を邪魔していました。
屋敷には中の坪と言う庭と池があり、廊下に柱が在って、お姫様の様なさとるの母親が二人の背丈を印してくれ
ました。今でも残っているはずの柱の傷です。外の庭には池があって泳ぎました。門には石畳があり、幕を張って映
画を観ました。戦後の「ターザン」とか「鞍馬天狗」です。青年団が主催してみんなが手を叩いて観て楽しみました。
当時は未だ車はありません。すぐそばにある自分の家は帰った途端に土間でも寝ていたように想っています。
6~10才、小学生低学年。この頃は未だ泥道で車はありません。大人が自転車に乗り、子供の上級生は横乗り
をしていました。子供自転車は未だありません。私は父親の自転車を練習にして、ガタガタにしたそうです。
10代後半の兄達が居た時、20代の人達をおじさんっぽく思っていました。いろいろな魚やうなぎ、山鳥や蜂の巣など
獲ってきてみんなで食べたり、飲んだり、マージャンをしたりして、大人に見えたものでした。
1年生で入学した小学校は山道を歩いて30分、約2キロ離れた隣の岩本にあり、通学など思い出はたくさんあります。
木の実を獲りながら山の上を行き、川に入るために道を外れたり、向かい道で出会う中学生の女の子をみんなで泣
かせたり、山の上から石を転がして下を通る大人を怒らせたり、力試しをしたくて遠回りの山道を走ったりしました。
始めの3ヶ月で新しい校舎の工事が始まりました。古い校舎は余り覚えていませんが、今から思えば民家に近かった
かも知れません。古田先生が夫婦で先生をしていて、可愛がってもらいました。漏らした事もありました。
新校舎を作るとき、川原から砂利や砂を籠で運んで、基礎工事のお手伝いを全校でやりました。今は公民館にな
っています。落成式があって、次に祭りが在り、校舎の二階から父親の担いだみこしがやって来るのを見ていたら、
顔が真っ青です。それは小雨の中、青い鉢巻をして酔っ払っていたから。みんなの話の種です。村中でお祝いをし
ました。次の先生は中島先生、パンツを見て喜んでいました。戦後教育が始まり少し違和感を感じるようになって
きました。給食があって、父兄が交代で作ってくれました。始めは粉ミルクを溶かして暖めパンと食べる。おいしか
った。それから味噌汁になったり、ケンチャン汁になったり変わったけど、子供ながらに文句を言ったけど愛情の
こもった料理でした。学校が終ると谷川や大川にみんなで魚取りに向かいました。川から上がると巡査泥棒や
缶蹴りなど遊ぶ事はいっぱいです。川原では父親の真似をして炭焼き釜を作ったこともあります。
冬には一日の仕事を終えて、山から炭を担いで道を歩いてきます。そこに雪を盛って水を掛けて雪をかぶせます。
そんないたずらをした者も居ました。悪い子供です。雪に穴を掘って落とし穴を作ったり。そりを作って山道を滑り
降りたり、凧を作って凧揚げしたり、コマ回しをして鬼ごっこや皿で受けたり、ビンのキャップで受けたり、愉しかった。
小1が上が瀬では4人でまさ子は一年で転校しました。後は男の子が3人です。
そう言えば、草取りなど農作業を手伝っている時、母親がよく言ってました。
「世界には食べられない人もたくさんいるのだから、贅沢を言わないで暮らせ、」って。
直ぐそばの谷川へ洗濯たらいをかかえて行って、母親達が洗濯をしていた。おぼろな記憶の思い出です。
木炭車があって炭を積んでいました。岐阜乗り合いの定期バスがいて、りゅういちと言う親戚の人が車掌です。
学校の帰り道、砂利道ですが、途中で乗せてくれた事もあります。又、吉友の三輪車がカーブでパンクして曲がり切
れず岩と松ノ木の間で挟まれて中ブラになっていました。そこは30㍍以上何も無い絶壁で大火打ち岩と言う所です。
・以上は1950年代前半の頃の記憶、下は2017年3月の印象に残る記事。
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10~12才そして中学卒業までが板取村、1956~1961年頃。
サンヨーの洗濯機、親戚の電気屋さんから入りました。谷川の洗濯板も見なくなりました。
最初にテレビを観たのが、隣部落の母親の弟・叔父さん家で村中で大相撲を見ました。4年生です。
鏡里、吉葉山、千代の富士、などが思い出です。次は直ぐ近くの母親の生家に入り、さとると一緒に
勝手に見ていたら父親に止められてコントロールする様になりました。しばらくしてさとるの父親がスバル360
を買いました。その後コロナに変えて、さとるは中学生なのに運転していました。二年の時転校したので、
自分は遊び相手がいなくなり、ゲームの様に勉強した結果、岐阜市へ進学し、板取村とお別れです。
4男の私が11才の時、長男の兄が結婚しました。ひと回り年上でそれまで父親と一緒に炭焼きをして
いました。大きな鯛の目玉が美味かった事と義姉さんができて嬉しかった事を覚えています。しばらくして
炭焼きでは時代遅れだと言う事で、原木業を始めました。山の立木を買い、切り出しトラックで運び町
の材木市場で売ります。出す時は山の斜面を滑り落す、架線を張って道の傍まで渡す、谷川を滑らす、
川を流す、などいろんな方法で運び、夫々に技術、労力、智慧、資金、人材、交渉取引が必要でした。
山では日用さんを雇い、トビを使って木を引き出し、架線では変速機を使い、コントロールをします。それらが
面白くて、子供でしたが山によく行きました。大人とのやりとりも愉しかったです。今は亡きその頃の人名は
秋市さん、義則さん、政直さん、行雄さん、山で焚き火を囲み弁当を食べたら、休憩しながら鉈や鎌を
砥石で磨いたり、からかったりからかわれたりで、年の差越えてやっていました。中学時代です。さすがに三
年生の時は受験勉強です。その頃の古い船戸先生、新任の瀬古先生、村瀬先生、3人だけの門井出
分校、ほぼ独学で、過去の試験問題集を繰り返しやって理解をしていきました。やりきって悔いの無い所で
高校受験して、ほぼ最下位に近い所で加納高校入学、その勢いで勉強して3ヵ月後の実力テストでは
400人の上位45番、その後は勉強もしないので、卒業する時は最下位に近かった・・・思い出です。
もう一つ・・・3ヶ月に一度模擬試験が岐阜でありバスで出てきました。板取村から長良橋の近くまで来ると
排気ガスの匂いで気持悪くなり、毎回バスに酔うようになりました。今思えば新鮮な所に居たと思います。
3才上の兄、卒業して電気工の見習い初任給¥8,000-とか。5才上の兄は大工の見習いです。
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1961~1964年 加納高校生の時。山奥の田舎から出てきた自分に加納高校は大都会です。高砂町の
九朗八さんの所、父親の配慮で大家族の中お世話になり、近くの永田章雄など誘ってもらい自転車通学、
部活はハンドボウル、帰り道岐阜駅上、エックスランのネオンが印象的、半年で下川手の和田さん家に引越
し、此処は通学途中に女子高がありました。ある時懐かしい故郷へ里帰りをして、野道を散歩しました。
山に畑があって野良仕事をしているおじさんに声を掛けたら、アメリカの話や世界経済の話をしてくれました。
「こんな山奥でそんな事考えても仕方ないのに」ってその頃は思いました。今は理解できる気がします。
生涯感謝する母の訓え・・・冬休みが終わり帰省していた最終日、降り積もり始めた雪の中、その日の最終
バスを待っていました。隣の一つ下の太郎と同じ年のさとる。みんな家を離れるのが辛い年頃です。次の日は
三学期の始業式で行かなければなりませんが、当然の如くバスは雪の為定時に来ません。私達は家に帰りま
した。案の定20分程遅れてバスが行きました。その時母親が帰って来て私を見つけて言いました。「学生は学
校を休んではいかん。隣の太郎を一緒に連れに呼ぶから岐阜まで歩け」って。夕陽の沈んだ雪道を太郎と
一緒に歩き始めましたが、太郎は最初のカーブでUターンしましたが、自分は母親への逆恨みで興奮して歩き
続けて一時間半、なんと雪でスリップして立ち往生していたバスに追いついてしまいました。そればかりかバスは
私を待っていたように乗ったらすぐに動き出し、岐阜まで順調に走りました。神様の計らいだったと今でも感じます。
3年生、大学へ進学しない子と短大は小人数でアウトローの男の子です。就職案内は信用金庫、十六銀行、
丸万証券、西濃運輸などで初任給は\16,000~22,000-、自分は元気の良い証券会社でも行こうと思い
母親に相談したら、「そんなところか?」の一言で止めました。給料を貰う事が愉しくないのです。
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1964~1970年 自動車板金見習いの時。
3月10日卒業式の翌日から塩谷鈑金の見習いに入りました。珍しい車に触れる事と土間で仕事している
一番ボロッチイ仕事場が動機でした。高橋理三郎おじさん・母親の従兄弟のお世話です。第一第三の日曜
だけ休み、毎日終る時間は解りません。おじさんは「辛抱して技術を身に付けろ」って言いました。
最初に貰った給料は\9,000-。得意の数学で計算したら、一日\300‐ほど、外食が一食100円まで位。
慰安旅行は足立自動車と温泉旅行、上着は兄の借りて、下着のまま下駄履きで、写真あります。
ヤクザの様な松本さんとインテリな和田さんと静かな熊崎さん、オイチョカブ・花札を徹夜でやりました。
それがスタートで、オリンピックがあり、新幹線が走り始めました。全盛期の始まりです。
近くの青年団で行動し、盆踊り、民謡クラブ、旅行などもよく行った。
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1970年~自動車板金修理工場・自営を開始。
「自分も人並みなら出来るだろう」・・・独立に踏み切った時の言い聞かせ・24才。
車が貴重な時全損は考えない、大破を直すほど自慢気だった。押すことも引くことも運ぶ事も手作りで工夫
した。下請けはやりたくない、好みの車を直したい、そんな思いに終始した。自由な時間も手に入れた。
子供ができて、大阪万博に行った。野球、ソフトボール、マージャン、玉突き、磯釣り、登山・・・色々な趣味
をやってみて、空手だけが続いた。セミナーもたくさんやり、あえての冒険もして、リスクも負った。
1988年~2017年3月。(有)ナガヤ・設立運営。
板金屋を打破したくて、とりあえず、(有)ナガヤ・の社名をつけました。さしあたり、サービス業の自覚です。
工場に入り込んでいれば安心みたいな、自分の心を打破する目的でインドに旅行して、勢いで正反対と思う
アメリカへ行ってみたら、アジアへ行って最小限世界を見なければ・・・って思い、シルクロードを辿ってみました。
片目の左眼球破裂・失明、家庭崩壊、様々に予想外を体験し、その後、ロシアに誘われフランスに娘が行き、
外国を体験しました。しかしあまり解った実感はありません。強いて言えば、解らないと言う事が解りました。
全ては自分の心次第だと言う事です。しかし、自分の事は何時まで経ってもチンプンカンプンです。
そして現在、車はほとんど行きわたり、常識も変わり、社会も変化して、更に変動の真っ最中、自分にとって
珍しい車が増えて、年齢も知らないうちに増えて、現役引退となり、社長は古田になりました。
自分は今後の遣り甲斐を模索中、大切な真理は不滅ですから。
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